小田実『何でも見てやろう』は元祖旅学レポートだ

小田実『何でも見てやろう』は元祖旅学レポートである 旅人文庫

こちらは、旅行記や旅小説、地域や文化の理解に役立つ書物が並ぶ、旅の本棚です。
店主がおすすめの旅本をレビューしていきます。

初回の今回は、小田実『何でも見てやろう』をご紹介しましょう。

 

著者:小田実(おだ まこと)
題: 『何でも見てやろう』
初版:河出書房新社 1961年 

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何でも見てやろう (講談社文庫)

 

 


愉快で知的、永久不滅の世界旅行記

 

日本の若者たちを彷徨の旅に駆り立てた元祖旅本である。

しかし今日では「バックパッカーのバイブル」と言えば、沢木耕太郎をはじめとして、あるいは蔵前仁一下川裕治高橋歩といった名は挙がっても、意外にも小田実を読んだことがないという人は多いのでないか。

いや、小田実を「バックパッカー」という呼称が生まれる以前の旅人とするならば、「バックパッカー」の出現以降、もはや小田支持者は少数派で必然なのかもしれない。しかし読まないのはもったいない。なにせ愉快だし、今なお腹の底に響く威力がある。

著者の小田実(1932ー2007年)は、東大文学部を卒業後、1958年に26歳でフルブライト奨学生として米国ハーバード大学に留学した。つまりまごうかたなきエリートだ。だからこそあえての軽薄な口調が映える。「ひとつ、アメリカへ行ってやろう、と私は思った。」という軽々しい書き出しが憎い。ギャップで心を掴んでくるのである。

理由はしごく簡単であった。私はアメリカを見たくなったのである。要するに、ただそれだけのことであった。

小田実『何でも見てやろう』P.9  講談社文庫 1979年

 

などとうそぶくが、アメリカへ行くといっても今とは意味が違う、日本人の渡航自由化前である。選ばれし者しか海を渡れなかった頃だ。そこへきて、さもたいしたことじゃないようにそこいらの青年として、あくまで庶民的に、貧乏やデタラメや女の話にペラペラと多弁な口を滑らせながら大衆読者を巻き込む。小難しいことはふざけたように、冗談は真面目くさって述べ立てる。根が大阪人だからでもあろうし、一種の照れでもあっただろう。そこにまず文章としての魅力がある。椎名誠の昭和軽薄体と通じるところのある文体だが、こちらのほうが先輩である。

そうしながらも著者自身の旅の深まりとともに、壮大で核心的で生身の文化論をぶつけていくのだ。

好奇心の火だるまである著者はどこにでも首をつっこんでいくが、とぼけたふりをしていても中身は教養があるため、ただの面白おかしいギャグ旅行記では済まされない。

いつだったか誰かから、フルブライトのエリートなど所詮俺とは無縁、共感できぬ、という意見を聞いた気もする。しかし私はむしろ選民ゆえの義務としての旅、いわゆるノーブレス・オブリージュの意義を感ずる。

そのエリート氏がひとたび日本を出て1ドル360円の最中に繁栄のアメリカに渡り、あまつさえ諸外国のほっつき歩きを試みようものなら、途端に貧乏旅行者にならざるを得ないのだ。道行く人は誰も彼が東大生やハーバード生であるとは知らない。食うや食わずのみじめなこの東洋の青年は、哀れまれて食べ物を恵まれたりまでする。

 

おもえばふしぎな旅であった。私は貧乏だったから、私の「何でも見てやろう」という野望は好都合であったかもしれない。私のような状態(憐れなそれといってよい)にたちいたれば、ひとはいやでも社会の底みたいなところを目撃しなければならないだろう。それはときには楽しい、そしてたしかに有益な経験ではあった。だが、ときには悲しげで不快で、うんざりしてたまらない経験でもあった。私はあるときには人間ではなく、動物であり虫けらであった。しかし、私はいつも社会の底ばかりをうろついていたのではない。私の旅は、いつも急上昇と急転落をくり返した。

小田実『何でも見てやろう』P.176  講談社文庫 1979年

 

小田はまさに「何でも見てやろう」の方針を忠実に遂行していった。

 

つまり外国へ行って、いや、べつに行かなくたってよろしい、この日本国のことでもよい、めいめいの趣味、主張、主義にしたがって、上品なところ、きれいなところ、立派なところばかり見る、あるいは逆に、下品なところ、汚いところ、要するに共同便所のようなところばかり見てくる、私はそんなことはきらいである。世の旅行者というものはたいていその二つ、上品立派組と共同便所組のどちらかに所属してしまうようであるが、これはどうもやはり困りものではないのか。ひとつの社会というやつは、どこだって、美術館だけでできあがっているのでもなければ、どこへ行っても共同便所ばかりというようなこともないのである。

小田実『何でも見てやろう』P.19  講談社文庫 1979年

 

夢に憧れたアメリカの摩天楼を見て、スラム街に出入りし、芸術家と暮らし、知識人と語らう。自分が神秘の日本人ともてはやされる目前で、黒人への人種差別が身をえぐる。イメージと現実、西洋とは、インドとは、日本とは……小田はあらゆる匂いにまみれて、唸り、帰国した。それはのちに「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)というベトナム反戦運動を全国展開していく目覚めの旅ともなった。

 

 

『何でも見てやろう』が発表されたのは1961年。
熱い。熱い時代である。

なお、随所に今では許されないような差別的表現が見られる。我々現代の読者はそれに対する違和感や、戦後から回復したばかりの「途上国」日本の描写をもって、はからずも昭和という異文化を知ることにもなる。

ついでながら、外国で女の子にモテてモテて、みたいな書き方をしているのは苦笑である。五木寛之の『青年は荒野をめざす』といい、どうして男っていかにもモテたかのように言いたがるのかしら。そこらへんはご愛嬌として、聞き流してしまいましょう。

 

しかし、芯には時代を経ても不変の価値がある。

 

小田は後年、

「思想というものは歩いて考えるといちばんいい。」

「自分で考えなきゃいけない。歩くことによっていろいろ見える。」

と語っている。(NHKアーカイブス「あの人に会いたい」

 

願わくは、これからもこの国の若者が「何でも見てやろう」の精神で歩き巡らんことを。

困ったことに、私のようないいオトナですら読み返してしまったら俄然、世界放浪に出たくてたまらなくなってしまった。作用の強い名著ですので、どうぞお取り扱いにはご注意を……。

 

 

ぜひ読んでみてくださいね↓

 

 

 

 

 

 

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