2025年9月末、長崎の平和学習をテーマとして、大人ひとり修学旅行を実施しました。
きっかけはその年の8月9日。
平和祈念式典のニュースを見ながら、そういえば長崎の原爆資料館には行ったことがないな、と気づいたのです。
広島は数年前に初めて訪ね、原爆ドームと資料館に強い衝撃を受けていました。
なぜもっと早く来なかったんだ。
と、重い義務を感じました。
長崎もまた、学ばずに済ませるわけにはいかない。
選挙や自分の言動を判断するために、不可欠。
海外を旅するにも、ヒロシマ・ナガサキに行ったことがないとは言えない。
そんな動機で、長崎の被爆遺構をめぐることにしました。
1日半でめぐる長崎平和学習コース
原爆資料館を中心としたルートは次のとおり。
宿泊先:FORZA ホテルフォルツァ長崎(長崎市中心部)
宿からの往復:路面電車
途中の移動:徒歩
長崎原爆資料館(9:30頃着)
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長崎原爆死没者 追悼平和祈念館(資料館併設)
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爆心地公園
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休憩(14:30頃)
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平和公園
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如己堂/長崎市永井隆記念館
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浦上天主堂
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長崎大学
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山王神社(一本柱鳥居/被爆クスノキ)(17:30頃)
〈別の日〉宿から徒歩
救護所メモリアル(長崎市立図書館)
平和学習コースだと一般に、原爆資料館と平和公園がマストで、あとは山王神社も含まれるかと思います。
今回、SNSで地元の方々に教えていただいたのが、
・如己堂(にょこどう)/長崎市永井隆(ながい たかし)記念館
・救護所メモリアル(長崎市立図書館)
こちらも非常に重要でした。
生身の人間像に触れられるため、旅程に入れることをおすすめします。
また、原爆資料館には映像資料が見きれないほどありました。
拝観後、ざわついた脳内を静めるひとときも必要でしょう。
ゆとりをもった時間をお見積りください。
長崎原爆資料館
まずは宿を朝出発し、路面電車で30分ほどの原爆資料館駅へ向かいました。

駅から徒歩数分で原爆資料館へ。
80年前に焼け野原だったとは嘘のように、緑豊かな一帯です。

資料館に入ると、ボランティアガイドさんの受付がありました。
頼みたいところでしたが、今回は自分でゆっくりまわって第一印象を感じたかったため、見送ることに。
時間がない場合は、ガイドさんに要点を説明していただくのも良さそうです。

館内は、明るい現代から、深い過去へと潜っていくような造りでした。

時は1945年。
解説文によると、原爆投下の候補にされていたのは、日本国内の17都市でした。
東京湾、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、八幡、小倉、下関、山口、熊本、福岡、長崎、佐世保。
狙われていたのは、軍港や軍事施設がある拠点です。
軍備を強めるほどに、攻撃対象になっていた。
これらどの都市であってもおかしくなかったのですね。
広島の次に目標とされていたのは、小倉です。
8月9日、B29は小倉の上空まで来ながらも、焼夷弾による煙のため投下を断念。
そのまま第二目標の長崎に向かい、プルトニウム型原子爆弾「ファットマン」を投下しました。
このとき、原爆など使わずとも、すでに日本の敗戦は確定していたといいます。
アメリカでも、原爆を落とす必要はない、という見解が出されていました。
たとえロシアが参戦しなかったとしても、そして本土上陸が計画、検討されなかったとしても日本は確実に1945年12月31日以前に、そして恐らくは11月1日以前に降伏していたであろう。
米国戦略爆撃調査団
日本に降伏の機会が与えられない限りは、原子爆弾によって日本に攻撃することは正当ではないと考える。
シラードら69人の科学者
第一に、日本はすでに破れているのだから原爆投下は全く不必要だ。
アイゼンハワー回顧録
8月6日、広島に落としたのは、ウラン型の原子爆弾「リトルボーイ」でした。
どうしても二種類の原爆実験がしたかった、としか考えられません。
新兵器を持てば、使わずにはいられないもの。
むしろ日本が降伏する前に、慌てて二発目を投じたのでしょう。
原爆は無警告のまま、強引に落とされました。

米軍機が投下したビラ。
退避呼びかけなどが書かれていますが、「ビラが実際に撒かれたのは原爆投下の後」だったとのこと。
もともと原爆は、ドイツを対象として開発されていたそうです。
それがなぜ日本に変更されたのか。
当時のアメリカ人にとって日本は、カミカゼだとかいって天皇陛下万歳と叫びながら少年兵に自爆させる狂ったカルト宗教の国、話の通じない野蛮人の国だったと、学生時代の国際政治学の教授から教わったのを思い出します。
(911米国同時多発テロ時のイスラム教徒に対する見方と同じですね)
しかもアメリカでは、有色人種の血が一滴でも入っていれば差別されていた時代です。
アジア人のことなど実験動物の猿としか思っていないでしょうから、同じ白人プロテスタントのドイツ人に対するよりも、罪悪感が少ないに違いありません。
今日でも、原爆が戦争を終わらせた、狂気の日本を食い止めた、原爆投下は正義だった、と考えるアメリカ人が多いことは知られています。
長崎原爆資料館には、被爆した長崎市民たちの証言映像が残されていました。
大勢の外国人来館者たちが、映像を見ていました。
ボタンで選ぶ映像には、元捕虜であるオーストラリア人被爆者たちの証言もいくつかありました。
しばらく観察していると、白人の来館者たちはもっぱら、そのオーストラリア人たちの証言映像を選んで視聴しているのです。
オーストラリア人捕虜は、原爆投下を肯定する証言をしていました。
なぜなら、捕虜であったとき、日本兵から耐え難い非人道的な扱いを受けていたからです。
法を逸した日本軍の残虐行為を終わらせるためには、原爆投下は仕方のないことだった、原爆が使われたから自分は助かった、といった旨を話していました。
ちょうど3人の白人女子たちが前に座ってその映像を視聴していました。
原爆肯定の証言を見終わると彼女たちは、互いにニヤリと薄ら笑いを浮かべながら立ち上がりました。
ほら見なさい。
やっぱりね。
と、にやけた顔は語っていました。
私はそのとき思わず腹の底から怒りが湧き上がり、彼女たちを睨みつけました。
どんな背景があろうとも、原爆を落としていい理由なんてあるものか。
原爆が桁違いに前代未聞の非倫理的な兵器であることが分からないのか。
原爆資料館で最も強いショックを受けたのは、何よりその薄ら笑いでした。
同時に、日本軍の野蛮さ、残虐さもまた、弁解の余地がないとも思ったのでした。

「二度とこの悲しい体験が繰り返されないよう」。

資料館の出入り口には、千羽鶴がありました。
「子ども達の未来のために 戦争のない 平和な未来へ」と書かれています。
長崎原爆死没者 追悼平和祈念館

SNSでおすすめいただき、資料館と隣接した追悼平和祈念館にも入りました。
文章や映像で、膨大な量の被爆者の証言資料があります。
このすべてに、数字では見えない、ひとりひとりの命が詰まっている……。

追悼空間。原爆死没者の名簿が納められています。
静謐の中で、黙祷を捧げます。
ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ。(…)
死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ。
爆心地公園
外に出ると眩しい緑。
資料館隣りの爆心地公園へ向かいます。
原爆落下の中心地です。
公園の地下には、1945年当時の地層が残されています。

公園の片隅に、何か彫刻がありました。

母子像ですが、少し検索してみたところ、この像の設置には住民による抗議運動があったとか。
はて、抗議されるモニュメントとは。
平和公園
続いて、隣りの平和公園へ。
平和の泉です。

昭和20年8月9日、原爆のために体内まで焼けただれた被爆者は「水を」「水を」とうめき叫びながら、死んでいきました。
その痛ましい霊に水を捧げて、めい福を祈り、あわせて世界恒久平和を祈念するため、核兵器禁止平和建設国民会議と長崎市は、全国からの浄財を基として、ここに「平和の泉」を建設しました。長崎市長
このきらめく山が、生きた人間が、なぜ焼けただれなければいけなかったのか……。

園内のモニュメントの中に、1985年にソ連から寄贈された平和の母子像とやらがありました。
ソ連もロシアも核大国やろが!

よく修学旅行生が集まっている広場です。

メディアでおなじみの平和祈念像。

ちょうど近くに修学旅行生を案内しているガイドさんがいらしたので、耳を澄ましてみると……
この像が建てられた1955年(昭和30年)、戦後の深い傷跡のなかで、被爆の補償もなく後遺症と生活に困窮している住民をさしおいて、銅像に4000万円もの浄財が投じられ、人々は怒り心頭であったとのこと。
長崎の復興は、住民が全部自分たちでしたんです。何の補償もなかった。全部自分たちで復興したんです。そういう一面も知っておいてください。と、ガイドさんは静かに言い残していました。
しかもこのモチーフ、平和のイメージとはかけ離れた筋骨隆々の男性像には、反発の声が噴出していたようです。
たしかに、案内板で「逞しい男性の健康美」という作者の説明を読んだとき、は? なんで男性の健康美?? と違和感がわいていました。
逞しい男性の健康美に4000万円。
女性や子どもや高齢の住民が困窮しているときに。
いつも声が届かない人々の無念。
平和をうそぶきながら、核武装や腕力を強めるグロテスクさ。
こうしたモニュメント群に対しては、慎重な評価を覚えました。
如己堂・永井隆記念館
平和公園から15分ほど歩き、如己堂と永井隆記念館にやってきました。
医学者かつキリスト教徒であった永井博士は、貧しい人には無料で、戦場でも敵味方の区別なく、治療を施していたそうです。
長崎大学で勤務中に被爆したのちも、救護活動に献身し、隣人愛に尽くし、平和を強く訴えた永井博士。
その生きざまは、真実、胸打たれるものです。
こんな善意の人がいるのか。
世の中には原爆を落とす人もいれば、永井博士のような人もいる。
どちらも人間なのか。
今回の平和学習で欠かせない学びでした。
長崎に行かれる方はぜひ足を運び、永井博士の心に触れてみてください。
こちらが、永井博士が病に伏しながら執筆して過ごした「如己堂」。

隣接する記念館にて、永井博士の肖像。

あの美しかった長崎を、こんな灰の丘に変えたのはだれか? …私達だ。
おろかな戦争を引き起こしたのは私達自身なのだ。(…)「剣をとるものは剣にて滅ぶ」との戒めを冷ややかに聞き流し、せっせと軍艦を作り、魚雷を作っていた私達市民なのだ。
本当の平和をもたらすものは、ややこしい会議や思想ではなく、ごく単純な愛の力による。
永井博士が私財を投じてつくった、子どものための図書室「うちらの本棚」。

余談ですが、記念館の建築、前のほうが素敵だったのにね……。

浦上天主堂
永井隆記念館からまた15分ほど歩くと、永井博士が洗礼を受けた浦上天主堂です。
長崎を象徴するこの教会も、原爆によって破壊されました。
同じキリスト教徒なのに爆撃するとは、神をも怖れぬ暴挙……。
そこに躊躇はなかったのだろうか。

長崎大学

浦上天主堂から山王神社へ、少し距離がありますが、てくてく歩いていると、長崎大学が現れました。
校門も洋風のデザインで長崎らしいな〜と眺めていたら、ここにも案内板が。

爆心地から600mの距離にあった長崎医科大学は、原子爆弾の炸裂により全壊全焼、と。
教授や学生たちは逃げるひまもなく、倒壊した講堂の下敷きとなり、次いで発生した火災のために焼死し、講堂の焼け跡からは、教授は教壇に、学生は座席についたままの姿の遺骨が発見されたという。
歩き疲れたらバスを使うつもりだったのですが、たまたま行きあたって立ち止まりました。
長崎の町には至るところに原爆の記録が残されているのですね……。
山王神社(一本柱鳥居・被爆クスノキ)
30分ほどの散歩で、山王神社へ到着。
爆風で半分が吹き飛ばされたという一本柱の鳥居が、悲しい姿を今に伝えています。

鳥居の先のお宮に茂っているのは、大きなクスノキ。
凄まじい熱線で焼け焦げながらも、奇跡的に芽を吹き返した被爆クスノキです。
再生と希望の象徴として、この青空に大樹の腕を広げていました。


神社の隣りには保育園があり、あどけない園児たちが境内をよちよち走りまわり、ぺたぺたとクスノキに触れていました。
ああ、なんという平和……。
今、この尊さ。



復興の支えとなったこの木は、長崎出身である福山雅治さんの楽曲「クスノキ」にも歌われています。
平和学習一日コースの締めくくりにふさわしい大樹です。
被爆樹木を保全する活動
「長崎クスノキプロジェクト」
救護所メモリアル(長崎市立図書館)
日をあらためて、長崎市立図書館内にある「救護所メモリアル」を訪ねました。
この場所は元小学校で、被爆した人々の治療にあたる救護所となっていたそうです。

建物一階に小学校の様子が再現されており、映像では人々のリアルな思いを知ることができます。
ここにも欧米系旅行者の姿がありました。
映像を無言で見つめていました。

廊下の壁を埋めるのは、魂からの衝撃、嘆き、叫び、祈りの言葉です。

小さくとも重みのある場所でした。
原爆資料館はモノの記録資料が多いですが、こちらは声や感情など、形にならない記憶が主です。
資料館だけでなく、こちらも見ることが大切でした。

外に出ると、あいかわらず鮮やかな緑と光。
長崎の美しさは、涙の上に成り立っている。
原爆被害は終わっていない
長崎は、穏やかな町でした。
80年前に凄まじい悪夢があったとは信じられないほど、美しく、のどかでした。
市内は平和公園の周りも、被爆クスノキのご近所も、閑静で居心地の良さそうな住宅街です。
あたりまえの暮らしの貴重さを感じずにはいられませんでした。






そうしてなにげなく道を歩いていたとき、ハッとしました。
突然「原爆検診」という文字が目に飛び込んできたのです。

たまたまご婦人が、通りがかった男性に何か尋ねていて、男性は「ああ、それならそこの原爆検診のところから入ってください」と案内していました。
「原爆」は今も続いている。
過去ではないんだ。
終わっていないんだ。
長崎の町ではまた、「平和」という文字や、鳩のモチーフをよく見かけました。

通りには、クスノキプロジェクトの路面電車が走っていました。

「被爆80周年 長崎を最後の被爆地に」
この悲痛で必須の願いを叶え続けていくには。
クスノキとともに、100年、300年、500年と、継いでいくには。
永井博士は、その責任は私たちにあると、語っています。
