長崎ひとり修学旅行では、前回の平和学習に加えて、グラバー園の観光も行程に入れていました。
なにせ、レトロ建築やインテリアが大好きなので。
つらい歴史を学んだあとは、素敵な洋館を楽しもう!
という計画でしたが、ここでも予想外に、物騒な史実と向き合うことになりました……。
長崎ならではの多文化の魅力とあわせて、根源的に、平和とは何かを考えます。
グラバー商会と三菱の兵器ビジネス
長崎といえば欠かせない観光名所、グラバー園。
海を見下ろす丘に、外国人居留地時代の洋風建築が集まっています。
1858年の開国にともなってできた居留地には、欧米の商人たちが住んでいたそうです。

その一人、スコットランドの商人トーマス・グラバーは、21歳で来日し、「グラバー商会」を立ち上げました。
日本茶や生糸の輸出から、鉄、蒸気機関、兵器の輸入、不動産、炭鉱、造船業で財を成すとともに、長崎の近代化を築いています。
まずはそのグラバー邸を堪能しましょう。
1863年築、屋根は瓦葺き、和洋折衷スタイルがたまりません!
日本の伝統工法である土壁なども取り入れているそうです。

古建築はだいたい窓が美しいんですよ。
パステルグリーンの窓枠に渋いピンクの花柄カーテン。
在住当時のデザインなのか、修復後の演出なのか分かりませんが、ときめきますね。

クッションカバーやベッドスローは着物柄!?
意外なのに、しっくりくるセンス!

天井には、もとの花菱模様を再現した唐紙(からかみ)が貼られています。

明治20年頃に増築した温室も。
植物は当時を再現して置いているそうですが、素敵すぎるな!

曲線を多用したベランダ。
近代建築に足りないのは、曲線だと思う。

長崎港を望む絶景の立地です。


さて、園内の解説によると、このグラバーさんと懇意だったのが、土佐藩の武士、岩崎弥太郎です。
岩崎は土佐商会で、グラバーから武器を買い付けていました。
これがのちの三菱商会となります。
ただただお洒落な洋館を見たいだけで、なんにも調べてこなかった私。
グラバーが武器商人であったこと、実は現地で初めて知りました。
あとで検索したところ、グラバーは幕末、大量の武器を薩摩藩や長州藩にまわしていたのですね。
薩長はその最新兵器で幕府を倒し、明治政府を立てた、と。
裏にはグラバーの暗躍があったわけです。
しかし維新後、武器の需要が激減すると、グラバー商会は倒産してしまいました。
武器で儲かり、武器で潰れたグラバー商会。
武器商売を持続させるには、つねにどこかで戦争が起きているほうが望ましいことになる。
「死の商人」といわれるわけです。
グラバーは倒産後も、岩崎のパートナーとして三菱の石炭産業や長崎造船所に関わりました。
こちらは、三菱・長崎造船所の旧外国人乗組員用宿舎。

1911年にグラバーが世を去ったあと、三菱は長崎造船所で戦艦をつくりました。
グラバーが伝えた機械技術をもとに、三菱は長崎兵器製作所で魚雷をつくりました。
それが、1945年のあの日、原爆を招いたのです。
長崎へ行く前、無知な私は、原爆とグラバー園は関係ないと思っていた。
グラバー園は、きれいな洋館を愛でて遊ぶところだと思っていた。
たしかに、園内はほがらかな観光地で、解説は近代化の恩恵を伝えるのみ。
しかし岩崎弥太郎、武器、造船、という語を見れば、おのずと黒々しい影がずるずる引き出されてきます。
「金持ちに良い人間はいない」と、いつか富裕層出身の知人が吐き捨てるように明かしていたのを、グラバー園の豪邸を眺めながら思い出しました。

いま港に浮かぶあの船は、客船でしょうか。

クレーンが見えます。あれはどんな工業でしょうか。

商売繁盛の利益と倫理
グラバーさんと並んでよく聞く名といえば、某ちゃんぽんチェーンの店名でおなじみのリンガーさん。
イギリス人のフレデリック・リンガーは、グラバー商会から茶葉貿易を引き継いで独立後、保険業やホテル事業などを展開しました。
また、上下水道の敷設や、国際交流にも力を入れたそうです。
武器以外の平和産業はいくらでもありますよね。
1868年築、グラバー家からリンガー家に渡った邸宅を覗いてみましょう。

瓦屋根とベランダ、ウッドシャッターのバランス。
落ち着いた開放感です。

現代日本家庭で見ないタイプの窓、絨毯、ソファ。
リビングじゃなくて「応接間」なのよ。

和風の手洗いボウルがアクセントに。
こういうミックスインテリアが大好き。

なによりは、景色が最大の財産ですね!

次のお宅は、ウォーカー邸です。
ウォーカー商会は、日本で初めてサイダーのメーカーを立ち上げました。
長崎には、「日本初」がたくさんありますね。
居心地の良さそうなお部屋。
イギリスの児童文学を思い出します。

ウォーカー商会が売り出した「バンザイサイダー」の復刻版を飲みながら、園内の木陰で一休みしました。
爽やかな甘さが、歩き疲れた体に沁みます。


武器商売が破滅をもたらしたのにひきかえ、サイダーや公共水道などは、末永く誰もに喜ばれるものです。
岩崎弥太郎の宿命のライバルである渋沢栄一が、「道徳と経済の合一」を唱えたことを考えさせられます。
日本資本主義の父・渋沢栄一が西洋から取り入れたのは、最新兵器ではなく、近代経済の仕組みでした。
著書『論語と算盤(そろばん)』ではこれを東洋の道徳と合わせ、論語=倫理と、算盤=利益を両立すべきだと述べられています。
公益を信条とした渋沢は、ガス、電気、鉄道などの公共インフラや、女子教育を含む多数の学校、病院、福祉施設や、社会事業、文化振興に力を入れました。
一方で、兵器ビジネスには冷ややかであったといいます。
正しい道理に基づいた富を重視していたのです。
渋沢が関わった数百の企業や公共事業に、軍需と直接関わるものはないそうです。
兵器で儲けるよりも、商工業の底上げ。
国力の本源は軍備ではなく、教育。
それが渋沢の考えでした。
日本が軍拡に向かうことを懸念し、軍部の独走や軍事費の増大については警告していたようです。
また、アメリカに人形を贈る国際親善交流を通じて、民間から戦争を回避しようと動きました。
財界の双璧を成す岩崎から、「日本の経済を二人で独占しよう」と山分け話を持ちかけられたときも、渋沢はきっぱりと断りました。
「自分だけで市場を独占するのではなく、広く多くの人から資本を集め、みんなで豊かになるべきだ」という合本主義を説き、「強いリーダー」となって支配する私利私欲をはねのけたのです。
2026年現在、日本の一万円札には、その渋沢栄一の肖像が印刷されています。
このお金で何を売買し、どう使うか。
長崎の旅を経て、岩崎と対照的な渋沢の経済倫理を振り返りました。
キリシタンに見る宗教弾圧と受容
次に、グラバー園を出て、祈念坂を降りていきます。
坂の多い長崎でもひときわ有名な、石畳の坂。

自治会による看板には、「自己愛・隣人愛・世界平和」が祈念されています。

坂を降りた先に待つのは、大浦天主堂。
1865年に建てられたカトリック教会です。
江戸時代からの激しいキリシタン弾圧により、250年間も信仰を隠してきた村人が、その胸の内をついに神父に打ち明けた「信徒発見」の舞台となりました。

長崎の歴史的なキリスト教会群は今、世界遺産となっています。
現代の日本では、キリスト教徒だからといって、特にどうという差し支えはないでしょう。
教会といったら、信者以外にとっては、ステンドグラスがきれいだな〜などと眺めこそすれ、まさか怖いということもないでしょう。

しかし大浦天主堂のキリシタン博物館では、かつてキリスト教徒というだけで受けた凄まじい迫害と拷問を知れました。
明治になっても、浦上村ではキリシタン3394名が、死に匹敵するむごい流刑と棄教を強いられました。
信徒たちは故郷を追われたこの流刑を、「旅」と呼んだそうです。
「旅」という言葉の本質を突きつけられます。

単に信仰が異なるだけの無害なキリスト教徒が苛烈な拷問に遭ったとは、今では考え難いことです。
けれども昨今の日本では、イスラム教徒がいわれのない誹謗中傷を受けている。
昔のキリシタンと同様ではありませんか。
イスラム教徒を差別する排外主義の日本人は、仏教徒については何も言わないようです。
しかし仏教もまた、明治時代には異教として、廃仏毀釈によって破壊されていました。
キリスト教、イスラム教、仏教、いずれも由緒ある世界宗教でありながら、その時々の勝手な都合で迫害されている。
まるで学校のいじめのターゲットみたいです。
SNSなどでイスラム教徒への偏見を目にするたび、迫害の歴史が繰り返されていることに、いまだ鎖国した江戸時代の村社会のようだな、と偏狭さを感じます。

それにしても、早くからキリスト教徒がいて、居留地には多くの西洋人がいた長崎。
なぜアメリカはここに原爆を落としたのか、あらためて疑問でなりません。
カトリックとプロテスタントの違い?
いや、そもそもアメリカとイギリスは独立戦争をしている。
ヨーロッパ域内だって長年いがみあってきた国同士。
宗教がなんであろうが、人間は別の理由で戦争や差別をする。
戦争や差別の原因は、宗教とは別のところにあるということでしょう。
そして土着化する混交文化
グラバー園と大浦天主堂を見学後、近くの「四海樓(しかいろう)」で長崎ちゃんぽんをいただきました。
ちゃんぽんの発祥といわれるお店です。
同店初代が、中国南部の福建料理を日本風にアレンジしたのが始まりだそう。

「ちゃんぽん」の名は、インドネシア語の「チャンプルー」(混ぜる)が語源かと思っていたのですが、由来ははっきりしないようですね。
福建語の「吃飯」(シャボン)=ご飯を食べるという意味ではないか、という説があるそうです。
こちらは初期の「四海楼」で使われていたという食器。
景徳鎮と見受けられます。
南国風のカラフルな色合いがキュート!

ちゃんぽんは、新地中華街の「老李(ラオリー)」でもいただきました。
「四海楼」はあっさり系、「老李」はこってり系で、それぞれに美味しかったです!

新地中華街の門構え。

1635年の鎖国以降も、長崎では日中貿易が続いてきました。
中国との交流が、美味しいものをもたらしてくれたわけですね!
こちらは、「岩崎本舗」の角煮まんじゅう。

下は、長崎市歴史民俗資料館にあった「卓袱(しっぽく)料理」のサンプル。
卓袱とは中国語で食卓のことで、江戸時代に中華料理が日本化したものだそう。
長崎独自の豪勢な郷土料理です!

こちらも歴史民俗資料館の展示で、ポルトガルの衣装や置き物。

歴史上さまざまな移民が入り、和洋中と外来文化の良いところを保ちながら、混交文化の面白みが発揮されている長崎の豊かさよ!
町を歩けば、和洋折衷の意匠。

洋館に瓦屋根。

すぐそばには、中華建築。

長崎発のハイカラな食も。
1894年創業「梅月堂」オリジナルケーキ、「シースクリーム」

こちらも長崎生まれ、食べるミルクセーキ。

長崎名物トルコライスは、昭和生まれの日本化した洋食!
もう多国籍すぎて意味不明ですが、みんな大好きな味!

こちらは日本最古の石造りアーチ橋、「眼鏡橋(めがねばし)」。
1634年、唐の禅師によって石橋の技術が伝えられたそうです。
しっかり保存されていますね。

外国からの文化技術が地元の民俗と融合して培われた、「長崎らしさ」。

では、移民によって日本が失われてしまったのかというと、まったくそんなことはなく。
日本的な情景も息づいています。




そもそも太古から、中国をはじめ諸外国の影響を受けて発達してきたのが日本の文化です。
いえ、日本に限らずどこでもそうでしょう。
開港都市・長崎では、特に顕著に感じられます。

たとえば「長崎くんち」。
中国やポルトガルのモチーフを氏神様への奉納に取り入れた、江戸時代から続く秋祭りです。
外来の要素を吸収したそれは、今や郷土文化となりました。
ちょうど長崎に行ったとき、町ではお囃子の練習が聞こえてきました。

多文化・多民族を迎えて発展してきた長崎。
戦後は、緑豊かな町がつくられていました。
水辺の森公園には、散歩やピクニックに憩う人々。
港には、軍艦ではなく客船や釣舟。
ああ、静かなる幸福。





平和とは、武力で有無を言わさず相手をねじ伏せることでしょうか。
否、互いに譲り合いながら、ほどほどに協力していくことではないでしょうか。
差別をせず、戦争もせず。
美味しいものを食べて、それなりに仲良く暮らしていくほうが、楽しくて賢い。
平和とは、合本主義のように、自分だけでなく広くみんなで満足をめざすことではないでしょうか。
長崎の優しい夜景
稲佐山の展望台から、長崎の夜景を鑑賞しました。
世界三大夜景とされる絶景です。
ふだん夜景など興味のない私ですが、長崎の夜景は格別でした。
焼け野原だった町に、平和の明かりが満ちている。
それはギラギラした摩天楼のネオンではなく、夜道を照らす灯火でした。
てんてんと人々を導く、優しい光でした。


胸いっぱいで見惚れていると、ピーススタジアムの上に、折り鶴が舞い上がりました。


迫害と原爆、共生と開花の長崎で。
倫理と繁栄を両立させながら。
この平和が、幸福が、美しさが、永遠に続くよう願ってやみません。
