『人間を考える「旅に学ぶ」』(5)俳人 黛まどかさんの講演に寄せて

旅学ゼミ

2025年3〜4月に、『人間を考える「旅に学ぶ」』と題する5回シリーズが、NHKカルチャーラジオで放送されました。
第5回の講師は、俳人の黛まどかさんでした。
これまで同番組を聴いて語り合ってきた旅学仲間と、シリーズ最後のレビュー会を開きました!

俳人の黛まどかさんは「歩くように書き、書くように歩く」といいます。歩きの旅が大好きで、サンティアゴ巡礼(1999年)や四国遍路(2017年・2023年)を踏破しながら、創作活動を続けてきました。黛さんが2つの巡礼で出会った数々のエピソードから、歩くことと思索とのつながりについて語ります。情報から生まれる思考ではなく、歩くことから生まれる思考とは何なのか?俳句でつながる人々との絆を通して考えます。

(番組サイトより引用)

人間を考える「旅に学ぶ」(5)
俳人 黛まどかさん

画像:番組サイトより引用

NHKカルチャーラジオ(日曜カルチャー)
ラジオ第2 毎週日曜 午後8時
初回放送日:2025年3月30日
聴き逃し配信:2025年5月18日 午後9:00配信終了
https://www.nhk.jp/p/rs/GPV3P86GMP/episode/re/46NYX337PX/

ゼミ生

五郎:会社員。元・青年海外協力隊員。
halkof:当サイト運営者。ライター/旅学研究家。


halkof
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今回は「歩く旅」、旅の真髄といえるテーマでした。それにしても文学的な講演でしたねえ。ところどころに俳句が織り込まれ、風流でうっとりしてしまいました。

五郎
五郎

言葉をそっと置くようでしたよね。論理的に説明するのではない、詩人の言葉。余白がある。書き言葉と話し言葉にまたがったところで、両方に目くばせした話し方でした。

halkof
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そんな印象的な語りの中で、いくつもの重要なポイントを感じました。まずは「歩く」という身体性と「歩行から生まれる思考」についてですね。それから「巡礼」。人はなぜ巡礼をするのか。通過儀礼としての巡礼。そして「出会い」

halkof
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では「歩くこと」の意味から考えていきましょう!「歩くことで日常とは違う思考をたどる」といわれていました。

五郎
五郎

「歩行禅」というのがありますよね。座って考えるより、歩きながら考えるほうが脳みその血行が良くなるから頭がまわる。逍遥(しょうよう)学派1といって、学者もぐるぐる歩きながら考えたりしてきました。

halkof
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京都の「哲学の道」もそうですよね。哲学者が歩きながら思索に耽ったという。ベートーヴェンも毎日散歩をしてインスピレーションを得たとか。学者や作家、芸術家が散歩を習慣にしてきた話はよく聞きます。

五郎
五郎

近所を散歩するのでもいいですけど、場所が変わると、さらに脳内モジュールのはたらきが変わります。作家が旅館でカンヅメになるわけですね。思考の切り替えになる。

halkof
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ということは、場所を変えて歩く旅は、思考に最適ですね!

halkof
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以前、京都のお寺で3泊4日の禅修行体験をしたことがあるんですよ。坐禅に加えて歩行禅もしました。その経験から、「旅もまた動禅なのだな」と気づきました。旅と歩行禅は同じような心身への効果を感じたんです。

五郎
五郎

高野山には歩行修行というのもあります。とことん体を追いつめる過酷な歩き方らしく、そこまでいくとやり過ぎかもしれませんけど(笑)。頭でっかちになりがちなときは、歩くことで身体性を取り戻せます。

halkof
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齋藤孝さんの『身体感覚を取り戻す』2という本がありまして、旅学として大変参考になるんですけど、長距離を歩くことの効用が説かれています。いわく、歩行というリズム運動によりセロトニンが分泌されて精神が整う、と。

五郎
五郎

そうして長く歩き続けてランナーズハイのようになったときは、自分の頭の中で余計な考えを「捨てる」作業をしているかもしれませんね。

halkof
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そう、登山と一緒で、苦しいと目の前の一歩に集中するだけで精一杯になるんですよ。旅先でも、道に迷ったりして、はからずも重たい荷物を背負いながら汗だくで歩き続けることがある。無の境地です(笑)。歩く旅の特徴は、苦行要素ですよね。

五郎
五郎

でも、巡礼なら別に歩かなくても行けますよね? 古代の熊野詣だって、貴族なら牛車に乗ったりしてるでしょ。昔から日本人にとって巡礼は物見遊山であり、通行手形を出してもらうためのタテマエでしょう?

halkof
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それが貴族の熊野詣でも、「牛車なんか乗らずに、歩かなければ意味がない」と諭されていたんですよ。辛い思いをして歩いてこそ巡礼だ、と。

五郎
五郎

ああ、苦行が重要なら、チベットの五体投地は歩くより凄いですよね……。

halkof
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お遍路を歩くのも本当に過酷そうですよ。黛さんの講演でも若い男性が挫折した話が紹介されていました。思い出したのは、かつてその名も『旅学』という雑誌がありまして、池田伸さんという編集長がお遍路を歩いた記事が載っていたんです。もうね、つらい、しんどい、足が痛い……という呻きや息切れが耳に迫り来るようなルポでした。池田さんは旅慣れした、たくましそうな男性でしたが、そんな人でさえ苦しいんだ、と衝撃でしたよ。

五郎
五郎

巡礼で、身体性に気づく……歩く旅といっても、町歩きとは違うと?

halkof
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いえ、町歩きでも巡礼的な境地に入り得るとは思うんですよ。巡礼の構造って、ファン・へネップ3によると、社会からの「分離」→「境界」→「再統合」じゃないですか。だから、たとえば「日本を出て、異国を苦労して歩きまわって、帰国する」という場合でも巡礼と同様の経験にはなり得る。ただ、黛さんのお話によると、四国遍路もサンティアゴも、巡礼路の地形が精神の段階的な変化と一致した道のりになっているようですね。

五郎
五郎

うまくできたコースが有名な巡礼路として残っているのかも。いわゆる死と再生の胎内めぐりを体感できるようなコースなんですね。それが、生きづらさを抱えた巡礼者を惹きつけるのかも。すると、「道をたどる」こと自体に意味がある。つまり、過程が重要な「線の旅」。アニメや映画のロケ地をめぐることも最近は「聖地巡礼」と呼ばれますが、それはだいたい「点の旅」ですよね。『深夜特急』みたいに、もともとの作品が線のルートを描いていたら別ですが。

halkof
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ロケ地を見るだけなら道中は何でもいいですから、「点の旅」でしょうね。旅行業界にいたとき、アニメの聖地巡礼が盛り上がり始めて、業界の人たちが色めきたっていたのを思い出します(笑)。 巡礼がマーケティングの話になっていました。

五郎
五郎

それをいうなら、伊勢参り4や四国遍路もマーケティングの成果ですよ。お遍路でも戦後に白装束のコスプレを売り出しているわけで。

halkof
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それがいい具合に効果を生んだんですね……白装束で歩くという死と再生の象徴が、生きづらさとかを抱えた心の救いになりますものね。

五郎
五郎

聖地巡礼といえば、歌枕の旅もいわばその一種ではないでしょうか。先人が通った道を自分もたどりたいという願いは巡礼と同じですし。

halkof
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歌枕の旅、文人の旅も、歴史の長い旅の潮流ですよね。講演では、「歌枕の旅は置き手紙」「過去の歌人、未来の歌人と出会う」と語られていました。

五郎
五郎

『古今和歌集』なんて、まさにそうした過去と未来の交歓ですよね。でも文人の歌枕の旅って結局、上流階級の知り合いの家で接待を受けるような旅でしょう? まあ松尾芭蕉「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと」なんて目には遭っているとはいえ。

halkof
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それですよ、かの松尾芭蕉先生ですら、旅に出れば、馬小屋や草枕を耐える夜もある。それが巡礼や「線の旅」の大切な意義なんじゃないでしょうか?

五郎
五郎

うーん、表現者にとっては旅先で野垂れ死ぬのもひとつの理想なのだろうか……。

五郎
五郎

お遍路では、行き場のない人、事情を抱えた人が、家に帰らず延々と歩き続けていたりもしますよね。

halkof
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そうしたさまざまな背景を持つ人との「出会い」もまた巡礼の、そして旅の核心ですよね。黛さんも、俳句好きのオーストラリア人青年や、妻子を弔って歩き続ける人……名前も聞かない一期一会「最大の宝」として紹介していました。出会いの宝庫である巡礼と歩く旅については、テーマが大きいので、また別途ゆっくり考えてみたいです。

halkof
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「旅に学ぶ」最終回、情緒的で素敵な講演でした。ひとまずこれでシリーズ5回分のレビュー会をやり遂げましたね! おつかれさまでした。


  1. 逍遥学派:アリストテレスが創設した古代ギリシアの哲学者グループ。散歩道(ペリパトス)を歩きながら講義した。ペリパトス派。 ↩︎
  2. 『身体感覚を取り戻す 腰・ハラ文化の再生』齋藤孝 著、NHK出版、2000年 ↩︎
  3. 『通過儀礼』ファン・ヘネップ著、岩波文庫、2012年 ↩︎
  4. 伊勢参り:伊勢神宮の御師(神職)が全国の村々に「伊勢参宮するとご利益がある」とプロモーションをしてまわったことで広まった。詳しくは『江戸の旅文化』(神埼宣武 著)など。 ↩︎

五郎: 

旅心に誘われ、或いは生きづらさを抱えて巡礼の旅に出る人々。
彼等は修行の様な歩き旅の中で、歩きながら考える。
自らの身体性に気付き、時には立止まり、時にはランナーズハイの様にもなりながら、何かを捨てて旅を終える。・・・終える事ができるならば。
 
表現者でもある講演者は、歩いて思索する旅と、その表現について、旅で出会った言葉、旅人の言葉、時間と空間を越えて伝わる言葉、追体験する旅、それらのエピソードと想い等を語られました。

歩行と思索とについては、古くは逍遥派哲学者の頃から指摘され、瞑想とも通じる点があると思われますが、そこでは、身体運動としての歩行による脳の活性化、そして移動過程で変化し続ける入力情報、それらの相互作用の効果が大きいと考えられます。
 
旅の学びと、アウトドア活動からの学びには共通点が見られ、それらの重なるところに徒歩旅行があるとも言えます。
 
徒歩、自転車、バイクなど、移動手段そのものがカギとなる旅の場合、その語りは理屈っぽくならずに、シンプルになる傾向がある様に思います。おそらく、その移動が旅である事、旅の目的、期待される効果等の説明が不要(だとみなされがち)だからでしょう。巡礼もそうなのかも知れません。
「学びを求める」などという不純な動機で旅をする訳では無いので、そんな旅での「学び」はボーナス程度に考えるのが正解でしょう。
 
「旅」という、大きくて抽象的なテーマを説明する時には、やはり具体例を並べるのが解りやすいですね。それは話し手が、何をよすがとして、旅を捉え、旅をしているのかを示す事にもなります。

halkof:

講演では、スペインのサンティアゴ巡礼と四国のお遍路を比較しながら、「歩く旅」の共通点が語られました。
その中で、次のような言葉が紹介されていました。


「つまずくことも、道に迷うことも、発想の源泉」
「初めてお遍路をする人はほぼ間違いなく余計なものを持ちすぎている」
「遍路とは本当に必要なものを見つめ直す旅」

「荷物の量はあなたの不安の量」

「あなたが不安とたたかって、その不安を捨てることができたとき、初めて荷物が減る」
「出発前、人は自分が旅をつくるのだと信じるが、たちまち旅があなたをつくる、あるいは解体するのだ」(ニコラ・ブービエ)

―――

歩くことは考えることです。
私も修士論文や本の執筆で苦しいとき、行き詰まったとき、どれだけ歩いたことか。
歩いていると、新たな発想がわいたり、雑念が振り払われたりします。
しかも、特に行くあてもないのでなんとなく近所の神社巡りを散歩コースにしていました。
私にとって、それは小さな巡礼だったのかもしれません。

また、黛さんは、「歩いていると境界がなくなっていく」「他者と自分、生者と死者、過去と未来、あの世とこの世、他の命と自分の命が同期していく」と語ります。

巡礼とは死者として歩き、再びこの世に生まれてくること。
白衣は死装束でもあり、産着でもある。


たとえ巡礼でなくとも、歩く長旅では同様の経験をたどり得ると思います。
「自分探しの旅」といいますが、それは自分を無にすることで始まるのかもしれません。

なお、サンティアゴ巡礼とお遍路では宗教観の違いもあるとのこと。
サンティアゴは一神教で直線的。一刻も早く聖地すなわち神にたどりつくことが求められる。
遍路や熊野古道など日本の巡礼路は円環的。あちこち寄り道をし、巡る時間を描く。
どちらもまだ歩いたことがないので、いずれ行ってみたい道です。

最後になりましたが、俳人ならではというのでしょうか、言葉遣いの美しさと朗読のような語りに学校の国語の時間を思い出しました。
聴いていると心地よいのか、うちの猫も寄ってきました。
歩く効用を説くにあたり、私にはひっくり返ってもこんなしっとりした表現はできそうもないけれど、語り方として、ひとつの憧れとなりました。


旅学ゼミ、今後も不定期開催です!


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