旅学とは何か 歩いて感じる旅の効用

旅学とは何か?遊んで学べる旅の効用 旅学ゼミ

 

「旅学」って、聞いたことありますか?

ここで言う旅学には、二つの意味があります。一つは、旅について学ぶこと。もう一つは、旅をして学ぶことです。

今回は「旅をして学ぶ」という後者の具体例を、文献や独自インタビューをもとに紹介します。

あたりまえといえばあたりまえのようなことばかりなのですが、ここはあらためて堂々と、真正面から言い切っていきましょう。

 

世界を母校とする学び

キューバのハバナ大学
キューバの最高学府・ハバナ大学
「ALMA MATER」とは「母校」の意味
2012年

 

当サイトは、「旅学(たびがく)」というテーマを掲げています。でも、旅学って何でしょうか。そんな専攻科目は大学にはありません。そんな専門学校もありません。

そもそも、旅って遊びでしょ?

ところが、旅を重ねてきた人々からは時に、「旅学」という言葉が自然と出てくることがあります。

その理由をひとことで言えば、「知らない土地を歩くことで、世界の有り様を五感で吸収し、人と出会い、新しい情報を得て、知識や感性が養われる」といった旅の効果を実感しているからでしょう。

旅とは、世界すべてを学校とする、文字通りの青空教室です。遊んでいるつもりが学んでいた、という最高の仕組みが旅にはあるといえます。

では、たとえばどんなことが身につくのでしょうか?

 

旅の効用

中国・雲南省の山村の市場
中国・雲南省の山村の市場
さまざまな少数民族の人々が集まる
2013年

 

下記に、「旅学」の基本的な内容を挙げてみました。

 

一次情報を得る

旅学とは、現場で全身から吸収する知です。

どんなにメディアが発達しても、直接体験との間には、超えられない壁があります。

ニュースの報道や本に書かれていることが真実だとどうして言えるでしょうか? 美しい風景の写真や映像は、美しい部分だけを切り取って演出しているのかもしれません。

 

まずわれわれが必要なことは翻訳でないもの、自分の目を通して物をみる、そういう目を持つことが、何より大事なことではなかろうかということを、旅をして考えさせられてきたのです。本物をみるということは、あるく以外に実は方法のないものなんです。

宮本常一『旅にまなぶ』P.83未来社 1986年

 

現代では、家の中で座っていてもインターネットがあれば瞬時に世界中の様子を知ることができます。これはたしかに便利な恩恵です。しかし日々メディアの波に晒されている我々は、ともすれば物事を直接体験しないまま分かったような気で過ごしてしまいがちです。

教育学者の斎藤孝氏は、幕末の日本で師を求めて足で訪ね歩いた志士たちを例に、こう論じています。

 

歩くことを基本にしたこうした学びのスタイルは、情報摂取という点からいえば効率がよくないように見える。しかし、こうした出会いは、人生において祝祭的な時間である。自分の利益になる情報を自分の部屋に居ながら効率よく摂取するというだけの了見では、捉えることのできない濃密な時間がこうした出会いにはある。また情報という観点から見たとしても、人物の表情や口調、あるいはからだから発せられる人格的な雰囲気やしぐさ、あるいはその場の状況での振る舞い方などは、莫大な情報をふくんでいる。

からだとからだの間でやりとりされている情報量は莫大である。その上、実際に会って話をすれば内容も変わってくる。自分のからだに刻まれた人物の印象は、自分の中に住みこんでその後の学びを活気づける。電子メールを通じての情報交換は効率的であり、今後も増えていくであろうが、自分の足を使って会いに行くことの重要さはいよいよ増してくるのではないだろうか。

斎藤孝『身体感覚を取り戻す 腰・ハラ文化の再生』P.41 NHKブックス 2000年

 

光り、匂い、響き、肌触り、味わい、風、なんとなく漂う雰囲気……そうした総合的な感覚は結局、現場以外では分かり得ません。

名所だと聞いて実際に行ってみたら案外しょぼかった、ということで「世界三大がっかり」なんていう言葉もあります。逆に、「世界三大がっかり」と聞いたけれど実際に行ってみたら自分にとっては発見があった、という場合も有り得るでしょう。

その場に立ってみて、その美や真実にみずから触れて得られるとてつもない情報量や感動、それこそを学びと言わずなんと呼びましょう。

 

自分の頭で考える

旅をして一次情報に触れることは、巷にあふれる玉石混交の情報を自分の頭で判断するのに役立ちます。メディアや権威から与えられる恣意的な情報ではなく、まるごと生身の現場体験をもとに考えられるからです。

五感から主体的に吸収された一次情報は、強烈な印象とともに脳と体に記憶されます。それは原体験として、独自の思想の源ともなります。

 

旅で学んだことはまあ多すぎて言えないけど、いろんな情報に左右されるんじゃなくて、自分の見聞と、それまで机上で学んだことや先人の事跡をくっつけて、独自のものの見方ができるようになること、なれたかどうかは分からないけど、旅人の知性っていうのはそうあるべきだと思うに至った、ということだよね。

岡村隆(探検家) interviewed by halkof 2017年

 


それが自由な旅ならば、今夜はどこへ泊まるか、明日はどこへ向かうか、この路地を曲がるべきか、この水は飲めるか、食べてみてよいか、目の前にいる人物は何者か、信じるか否か……、即座に判断力を要求される瞬間の連続です。次の一歩をどう踏み出すか、すべてを自己決定していくことになります。

旅には、予想外の展開やトラブルもつきものです。未知の状況に対しても、脳内の知識と経験を総動員して見極めていかなければなりません。時には最悪の事態も予想し、結果を引き受ける覚悟と責任を持って、決断するしかない場面もあるでしょう。

このような旅は、自立した思考力、判断力、決断力を養う機会となります。

 

視野が拡大する

体験が増えれば視野が広がります。さまざまな土地を歩き、異なる文化の常識に出会えば、世界の多様性を感じるでしょう。それにより、さらに多くの側面から物事を考えられるようになります。

たとえば、ユーラシア大陸を横断した公認会計士のY氏は、こんなふうに語っています。

 

旅先では一応、観光するような場所があるところに行くけれども、実はそこで人と触れ合うことのほうが楽しいな、と思います。コミュニケーションを取るのって現地に行かないとできないことなので、それが旅の醍醐味だな、と。特に、地元の生活を見てくることがすごく大事だと思っています。

たとえば少数民族が暮らす場所を歩いてきた人って、そうした場所で開発計画が持ち上がったときに、自分がすごい権力を持っていたとしても、どかーんとそこを壊してしまおうとは考えないと思うんですね。一回立ち止まって、あそこはこんなきれいな場所であんな動物がいて民宿のおじちゃんとおばちゃんが暮らしていたな、って頭に浮かぶ。

ちょっと配慮すればお互い共存する形でできるはずでも、実際には強引な計画が進められてしまうことがあるのは、相手に対する理解が少しでもあるかないかという話だと思うんです。現場を一度でも見ると全然違う。みんながそういう旅の経験をしておくのはすごく重要だろうなと思います。

Y・M(公認会計士) interviewed by halkof 2009年

 

Y氏はその後、幾度かの旅を経て、貧困国への貢献を理念とする社会的企業でキャリアを積みました。

また、フリマアプリの「メルカリ」を創業した山田進太郎氏は、世界一周の旅をして、各地で学校に通えず働いている子どもたちがたくさんいる現実に気づいたことを機に、中古品を循環させるメルカリの仕組みを思いついたと語っています。

 

「意外と人間って生まれた国や環境に縛られてしまうんだな」「自分はこんなに恵まれているのに何もしないのか」――。

(中略)

「旅で出会ったような人たちがどうすれば豊かになるんだろうな、っていうのは帰国してからも結構考えていて。そういう中でフリマアプリを見た時、これこそ新興国にあったらめっちゃ便利じゃん! ってすごく思ったのを覚えています」

「「凡人」メルカリCEOの山田進太郎の周囲にはなぜ優秀な人材が集まってくるのか
メルカリCEO・山田進太郎インタビュー #3」 文春オンライン
 2019/06/13
 2021年4月5日閲覧

 

あるいは、南米からアフリカまで人力での旅を果たした医師の関野吉晴氏は、寝食を共にした先住民たちの豊かな知恵から、人類と地球のあるべき未来を考えました。現在はさまざまな分野の専門家たちと「地球永住計画」と題する話し合いを続けています。

いずれも旅が社会、世界、地球規模の視野へと結びついているのです。

ちょっと壮大な考えかもしれません。しかし誰でも多かれ少なかれ、今までいた場所を脱して知らない土地を歩けば、歩いた分だけ視界が開かれていくはずです。

 

平和や共生への関心が高まる

上記の例のように、世界各地を旅すると、貧困や格差、紛争、差別、環境破壊など、我々がいまだ解決できずにいる地球規模の問題に直面することがあります。

日々の生活ではどこか遠い他人事のように思いがちであったとしても、熱帯雨林が伐採されたハゲ山や翻弄される子どもたちを目の当たりにすれば、ニュースの画面で見るよりはるかに真剣に、地球上で今なにが起きているか実感せざるを得ません。

それにより日々の行動が変わることもあるでしょうし、少なくとも無関心ではいられなくなるでしょう。

また、さまざまな文化や民族、宗教、生き方の人々と出会う旅は言うまでもなく、いわゆる異文化理解を深めてくれます。

人は知らないものに対して恐れや不安を感じます。閉じこもってメディアばかり見ていると、挙げ句には行ったこともない国や、会ったこともない人々の悪口を言い出す始末になりかねません。実態を知ることで、不要な脅威、過剰な恐怖は取り除かれます。

たとえば民俗学者の柳田國男(1875ー1962年)は、若い頃に質素で自由な一人旅をして、その経験をこう語っています。

 

旅行は幾分か気むつかしい私の気質を和げてくれたやうである。こんな人も居るあんな生活もあるといふことを少しづつ知って、思ふ通りに世の中がならなくても、喫驚をしなくなったのは有難い。日本人は最初赤い顔をしたのが悪人、もしくは悪人は赤い顔をして、是非出て来るといふ芝居ばかり見慣れて居た。それが実際では必ずしもさうで無く、何が何だかと時々考えるやうになって、急に出来るだけ多くの実例を知って見ようといふことになったのである。

柳田國男『柳田國男 私の歩んできた道』(田中正明編) 岩田書院 2000年

 

生身の相手と会話を交わし、漠然とした「○○人」ではなく、具体的な個人として認識すると、心に残ります。

ましてや、旅先で困っているときに手を差し伸べてもらうことでもあれば、腹の底から感謝が溢れてくるものです。友達になったり、親切にしてもらったり、たとえ一期一会の縁でも知り合った誰かの顔が思い浮かべば、遠くで戦争や貧困に苦しめられている状況も他人事ではなくなるでしょう

人間の行動を変えるのは感情だといいます。土地や人に触れ、思い出ができる旅は、平和と共生への第一歩となります。

 

自分の身の丈を知る

一方で、広い世界に出れば、いやでも自分の小ささや限界、知識不足が露呈してしまいます。旅先の土地はもとより、自分の地元についてさえろくに知らないと気付き、恥ずかしくなることもあります。

 

半年の旅の結果、自覚したのは無知への恐怖だった。旅を計画した時、地球という星で最も大きい島のユーラシア大陸を一周したら、さぞ勉強になり知識も増えるだろうと考えていた。しかし横浜港出港前のその甘い考えはすぐに吹き飛んだ。期待した思いとは逆に、言葉の通じない旅の中で、自分の無知を思い知らされたのだ。

相澤韶男『美者たらんとす』P.471 ゆいデク叢書 2014年(初出『あるくみるきく』108号 1976年)

 

安い切符が手に入る、と決めてしまった今度の旅、ガイドブックに裏切られ、親切に助けられ、本当にトラブルが旅なのです。

東南アジア。エキゾチックな南国ムード。でも、いざとなると知らなさすぎることに我ながらあきれる始末。

近山雅人『あるくみるきく』122号 日本観光文化研究所 1977年

 

旅の学びの一つは、「無知の知」です。
沢木耕太郎氏はこれを、「自分の背丈を示してくれる」と表現しています。

 

私は、旅する力のいくつかは持っていたと思う。しかし、それは「ラック・ナッシング」というほどのものではなかった。むしろ、旅を続けていく中で、自分の力のなさを痛感することの方が多かった。

語学の力はもちろんのこと、通過していく国々の歴史や文化についての教養も、政治や経済に関する知識も欠いていた。なにより、存在としての力が同世代の他の国の若者と比べて小さいと感じつづけていた。

(中略)

言葉の問題だけでなく、旅は自分の力の不足を教えてくれる。比喩的に言えば、自分の背丈を示してくれるのだ。私の肉体的な背の高さは、他国の同じ世代の旅人に劣ることはなかった。しかし、人間の力としての背丈が足りなかった。

この自分の背丈を知るということは、まさに旅の効用のひとつなのだ。

沢木耕太郎『旅する力』P.269-270 新潮社 2008年

 

まさに旅の効用のひとつなのだ!

 

革命の機となる

新しい世界で心身が震える原体験を得て、自分がいかに知らないかを知り、それまでの無関心が関心に変わる。

それは一種の爆発的革命です。

何も無かったゼロから初めの一歩が生まれる変革への起爆剤が、旅には潜んでいます。

一つは、自己革命です。

たとえば語学が苦手だったとしても、外国へ行って言葉ができずに困るのを痛感し、また、旅先の相手ともっと喋れるようになりたい一心で、必死に勉強し始めることもあるでしょう。

自分とはまったく違う生き方を知り、それまで教わってきた観念が覆るようなカルチャーショックを受けることもあります。

ライターのN・T氏は、大学卒業後の1960年代後半に勤めていた日本観光文化研究所で、初めて新潟の佐渡を訪ねた旅について、こう振り返っています。

 

緊張でガチガチでした。初日は小さなお堂に、一緒に行った(所員の)HさんとAさんと川の字で寝ましたが、そういう経験も初めてです。農家でお風呂をもらうと、桶のまわりに何の囲いもない。当時の佐渡ではそれが当たり前だったんです。ショックでした。

佐渡では畑の中に能舞台があって、農作業の合間に謡や仕舞をします。能とは高いチケットを買って見に行くものと思っていましたが、ここでは謡曲をうなる人が今もいらっしゃる。文化って何なんだろう、と考えさせられました。道端に腰を下ろしていると、ごめんなさいね、と言って通り過ぎる女の人のしぐさの美しさにも驚きました。私は小笠原流礼法を少々習っていたんですが、それとは違う自然な美しさなんです。

台地の集落の若者たちは柿の栽培での村おこしについて熱く語り合っていました。私と同年代の娘さんもいました。その存在感が凄いんです。「らちかん!」って娘さんがはっきりと言う。まずは行動しないと埒が明かない、という意味です。こういう女性っていいな、と眩しかった。私って何なんだろう、と思いました。

それに漁村では、同行した二人の男性は水を得た魚のように写真を撮りながら炎天下をぐんぐん歩いて行って、嬉々として漁師さんに話を聞いている。体は大きいけれど、まるで少年です。私は大謀網漁の船に乗せてもらえたものの手も足も出ませんでした。自分からは何も反応できない。私って何だ。情けなかったです。熱中症気味になって胃液を吐き、佐渡の海岸を歩きながら泣きました。

その旅から帰ってきて、所長の宮本常一先生に、私も歩きたい、とお願いしたんです。事務局を担当していた私も、歩きたい、と。

N・T(ライター)interviewed by halkof 2016年

 

彼女は翌年には一人で返還前の沖縄を旅しました。またその後の旅では福島の「三春人形」を始めものづくりの職人や全国の子どもの行事に興味を持ち、訪ね歩くうちに研究所以外の出版社でも体験を執筆するようになり、ライターとして仕事を続けてきました。

こうした自己発見から、新しいビジネスのアイデアや、あるいは社会的な革命も生まれてきます。1960年代に世界を歩いて『何でも見てやろう』を著した小田実が、帰国後にベトナム戦争を止める平和運動を展開していったのも、その一例でしょう。

古今東西、このような現象は普遍に見られます。

歴史を振り返れば、ブッダもガンディーもチェ・ゲバラも、旅をして目覚めた革命家なのです。

 

地元を新鮮な目で見直せる

人は旅をするほどに、かえって郷里を振り返り始めるようです。外の世界に出てみると、実はすぐそばにあった大切なものを新鮮な目で見直すことができるのです。

田舎がいやで飛び出したけれど、離れてみると自然や風景の美しさに気がついた。外国に行ってみて、日本ではあたりまえだったことの素晴らしさが見えてきた。などです。

これをメーテルリンクの名作に倣って、「青い鳥効果」と呼んでおきましょう。

もちろん旅人の目は、良さと同時に、改善点も見出すでしょう。

外国に行ってみて、日本ではあたりまえだったことのおかしさに気がついた。この土地では素敵な町づくりをしている。自分の地元でもできないだろうか。といった疑問も起こり得ます。

旅は郷土に帰結します。

旅学は郷土学へとつながり、豊かで多様な風土を描いていくのに役立てることができるでしょう。

 

遊びと学びの根は同じ

シルクロードの町カシュガル
シルクロードの町カシュガル
通りすがりの旅人を遊び相手にする子どもたち
2006年

 

今日では、旅というと単に余暇の遊びでしかないと思われるかもしれません。しかしそもそも余暇とは、生産労働の対極に置かれるただの消費時間ではありません。より積極的な価値を認めるものです。

 

余暇の語源は、ギリシャ語のスコレー(shcole)であり、閑暇とも訳されるが、英語のschool(学校)、scholar(学者)へと転化したように、単なるヒマな時間とは基本的に異なる。つまりその概念には学び、教養という意味が含まれている。

山上徹・堀野正人『ホスピタリティ・観光事典』 白桃書房 2001年

 

歩いて学ぶ。
地域に生きる人に学ぶ。
異国の暮らしに学ぶ。

旅学とは、自発的で多様な非文字の自己教育です。年齢や所属を問わない社会教育の一つです。入学資格も要らず、何度でも学び続けられる生涯学習の方法です。

本来、学びは10代や20代で学校を卒業して終わりになるものではないでしょう。むしろ年齢を重ねてさらに味わい深くなるはずです。

楽しみながら学べる旅って、なんて素晴らしいのでしょう!

思えばいつしか我々にとって勉強だの学習だのといえば、苦しい、めんどくさい、小難しくてつまらないのに強制的にやらされるもの、という負のイメージがつきまとっていたのではないでしょうか。

しかし学びの本質は、 一生懸命遊ぶことです。旅学における「学び」とは面白い「遊び」の延長、いやむしろ同義なのです。

 

寝てばかりいる賢人より、放浪する愚人(モンゴルのことわざ)

香川眞編・日本国際観光学会監修『観光学大事典』 木楽舎 2007年

 

私も、寝てばかりいる愚人から、放浪する愚人へと精進したいものです!

 

 

 

 

 

 

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