旅学の「大学院」と「あるくみるきく」若者たち

旅学の「大学院」と「あるくみるきく」若者たち 旅学ゼミ

旅に学んだ民俗学者の宮本常一(1907-1981)は晩年、若い人たちに向けた旅の社会教育の場をつくりました。心ある旅人を育て、見聞を広めてもらい、ひいてはそれが地方の未来にも役立つようにと願ったのです。

社会教育の場は、当時の近畿日本ツーリストの馬場勇副社長から誘いを受けて、東京にある同社の社内に立ち上がりました。「日本観光文化研究所」(最初は「資料室」)、通称「観文研」の誕生です。時は1966年、高度成長により日本の風土が激変する最中であり、海外渡航が自由化した直後でもありました。活動はそれから1989年まで続きます。

観文研は、旅行会社の付属機関といっても、中身はまったく自由そのもの。若い学生や風来坊を集めては旅費を渡して好きな旅をさせるという、一風変わった「研究所」でした。

元所員の方々にご協力いただいたコメントを交えながら、現代でも通用するたくさんのヒントに満ちたその旅学を見てみましょう。

 

観光の問題と社会的役割

宮本常一記念館
瀬戸内海の周防大島にある
宮本常一記念館
2017年

日本では戦後、観光業が発達し、国内外への旅行者数はみるみる増加していきました。

しかし地方の村を訪ね、そこに生きる人と出会い、語らう旅を続けてきた宮本常一は、当時の観光旅行に対して、ある疑問を抱いていました。

 

いま旅行する人は多くなったけれど、このような心のふれあいは少なくなってゆきつつあるのではなかろうか。地方をあるいてみると、いたるところで観光開発と観光誘致の構想をきく。観光によって地元の人は何を得ようとしているのであろうか。(中略)旅行は盛んになりつつ、人と人との結びつきの機会はかえってうすれつつあるように思う。

宮本常一『旅と観光』P.126 未來社 1975年

 

旅をするということは、自分の目で物を確かめることですが、それが今日の旅をみますと、必ずしもそうではない。例えばガイドブックというものがありまして、そのガイドブックを持ってどこかへいく。で、ガイドブックを読んでおって、「ああ、そうか」、それですべてが終わったような顔をして帰ってくるというのが、今日の観光旅行であるのです。これは実におかしい話だと思うのです。つまり教科書があって、それだけのものをみると、もうそれでおしまいになる。

宮本常一『旅にまなぶ』P.78-79 未來社 1986年

 

こうした批判意識の中で出会ったのが、近畿日本ツーリストの馬場勇(ばば いさむ)副社長でした。同社が創業十周年を記念して、日本の宿に関する本の執筆を宮本常一に依頼したのがきっかけです。二人は、これからの観光を語り合って意気投合しました。

それは「今までは自分の仕事にぶちこむことで自己の成長完成があったが、これからは自由時間の利用による人格形成の方が大きくなるのではないか、それにはその対策が考えられなければならぬ。その一つは人びとを太陽の照る下にできるだけ出てもらって、いろいろ考えたり、行動したり、その中で人間として成長していくようにすることも大切な条件の一つになるのではないか」(宮本常一『旅と観光』P.332-335 未來社 1975年)という考えでした。

そこで、観光資源とは何かといったことを含めて体系的な研究を進めるため、観文研が発足したのです。

宮本常一の長男であり、観文研の事務局長を務めた宮本千晴氏は、経緯を次のように伝えています。

 

(馬場副社長は)旅行社の社会的な役割について真剣に考えていたようですね。すでに観光公害の起るべきことを見ぬいていたし、顧客サービスと観光業としての公共サービスとのギャップに悩んでおられたようです。オヤジ(宮本常一)が例によって、旅行屋の悪口を言ったのでしょう。それでかえって副社長と話が合ってしまった。

宮本千晴『あるくみるきく』95号

 

研究のねらいは大きく二つありました。一つは、旅人との交流を通した、地域の自信回復です。もう一つが、旅人の育成でした。

 

日本観光文化研究所の創設

観文研二十三年のあゆみ
旅人たちが集った観文研の記録

 

旅は見聞により人間の成長を促します。と同時に宮本常一は、「地元が自信を失ってたり、気がつかなかったものに、すばらしいじゃないですかっていう評価を与え」ていくような旅人、また、「国の外でも、中でも、にぎやかなところ、人のたくさん行くところに行くんではなくて、へんなところばかり歩いてるような。そういう姿勢」(『あるくみるきく』70号)を持った旅人との知的交流が、地方の文化に良い刺激をもたらすと考えていました。

 

もっと若い人たちを太陽の下に引っぱり出したい。もっとすみずみまで日本を歩かせ、世界を歩かせて、自ら発見し、評価し、交わるようにしてもらいたい―それが地方を、日本を文化的に再生させる引き金になるのだ。

観文研『あるくみるきく』191号

 

そこで宮本常一は、勤めていた武蔵野美術大学の学生・卒業生を中心に、若者を見れば、旅をせよとけしかけました。観文研では、けしかけた若者たちに対し、何か探求テーマを持った旅であることを条件に、国内であれば旅費を提供しました。観文研は、「一人になっても歩き続けることのできる野育ちの研究者」を目指す「研究費つきの野外大学院」と言えました(観文研『あるくみるきく』181号)

 

所長の希望を汲み、事務局長の宮本千晴氏は、次のような方針をまとめ上げています。

 

研究所の目的は、究極的には「よりよい旅」を薦めることである。もちろん旅に善し悪しがあるわけではなく、たとえあったとしても研究所の決められることではない。しかし研究所がその目的として重視することにしたのは、旅の持つさまざまな効果、機能のうち、人々は旅をすることによって、知らない世界や人と直かに接触して交流する。それを通じていろいろなことを自ら発見し、考え、しばしば感動する。つまり旅は日常の枠を越えたところで経験や学習ができる可能性が広くあるということである。この可能性をできるだけ大きく広くすることによって、国民一人ひとりが直に日本や世界を見直し、その中で日本における地方、世界の中の日本、さらには自らの進路を考えてもらおうということである。

観文研「資料室ニュースNo.12」

 

自身も山岳部出身で数々の山旅を経験していた宮本千晴氏は、観文研では後輩のような所員たちを助けて、熱心に面倒を見ました。宮本常一・千晴両氏に影響され、国内外の旅や民俗、祭り、建築めぐり、山、探検などに興味を持つ個性的な若者たちが、ぞくぞくと観文研に集まってきました。

 

観文研と「歩く旅」

観文研の人々がよく歩いた佐渡の宿根木集落

 

若者たちは観文研を拠点として、沖縄から北海道、離島から山奥まで、全国に散らばって歩きまわりました。自費で海外へ飛び出す人もいました。

 

宮本常一先生は、とにかく歩け歩けって。フィールドに出ろ、旅をしろという。

元所員T.A氏 interviewed by halkof 2014年

 

私ばかりでなく、宮本先生は若い者にこんなことを言われていた。「いいから歩くことだよ。歩け、歩け、日本でも外国でもいい、まず歩いてみることだ。そうすればかならず、その人の未来に尾をひくような発見がある。構えずに、ふらあっといけばいい。そして心に引っかかるものがあればおっかければいい。そこから観たり聴いたりする旅がはじまり、自分自身の発見を自分自身のことばで考える旅がはじまる。流儀は人それぞれでいい。要は自分自身の視点、ひいては思想の骨組を発見することだ。」

相澤韶男『美者たらんとす』P.111-112 ゆいデク叢書 2014年

 

国内であれば旅費がもらえるとはいえ、若者たちは観文研に就職して月給を得ている研究者ではありません。皆、限られた費用で少しでも長く旅をしようとしたため、贅沢はできませんでした。しかしお金があろうとなかろうと、ちょうど渋沢敬三のアチックミューゼアムから旅立った宮本常一と同じように、荷を背負い、安宿に寝泊まりしながら、嬉々として歩いていきました。

中には、古い町並みや民家を訪ねてスケッチさせてもらう人もいました。美しい雑穀畑に魅せられて山村の食文化を調べる人もいれば、漁村をめぐって漁師さんから話を聞く人もいました。離島にかよって住み着く人、テキ屋の茶碗売りに同行する人、とにかく日本列島を徒歩で縦断する人、インドやアフリカやヨーロッパを放浪する人もいました。旅人たちはそれぞれの興味に没頭していました。また、行く先々で人の生き様を見て、異なる価値観を知り、心の豊かさに触れました。

旅とは歩くことでした。現実を自分の目で直接見ようとすることでした。出会いと偶然と発見の連続でした。時にはつらく苦しいこともありましたが、旅人たちは何よりも、地元の人や暮らし、大地との距離が近い旅を喜びました。

 

機関誌『あるくみるきく』の力

『あるくみるきく』表紙
国内外の特集を組む『あるくみるきく』
判型をかえながら全263冊が発行された

旅から帰ると若者たちは、機関誌『あるくみるきく』に報告を書きました。この『あるくみるきく』こそは、旅を深め、考え、学びに昇華させ得た、観文研の旅学の結晶といえます。

執筆や編集は、若者たち自身が持ちまわりで手がけました。『あるくみるきく』の制作は、読み手とともに書き手を成長させる、観文研の教育課程だったのです。

 

あるく・みる・きくはばかげた編集方針をとっています。素人が考え、素人が書き、素人が写し、素人が編集することを原則としています。効率よく確実な原稿を集めてポンという方法もとりません。

宮本千晴『あるくみるきく』39号

 

根源にあるのは、「誰かが面白がっていることを可能なかぎり語らせよう」「自分の足で歩き、見、耳で聞き、そしてきちんと考えたものであるということを条件に、未完であっても独自の何かにつき動かされているような若者に多く登場してもらおう」(『観文研二十三年のあゆみ』)という情熱でした。

原稿執筆はただの感想文ではなく、資料や写真を整理したり、文献を調べたりする作業を通して、旅での体験を身に落とし込んでいく、大切な行程です。初期には宮本常一所長から、のちには編集担当の仲間たちから厳しい指摘が入り、納得のいくまで時間をかけました。その過程は死闘といえました。

 

単にリライトによっていい作品に仕上げてしまうことは排され、あくまで執筆者自身に自らの裡にあるはずの発見や感動や問題意識にたどりつかせ、煮詰めさせ、筆者のものとして表現させることが目標であった。それには執筆者・編集者ともに膨大なエネルギーと誠意と時間と手数を投入する以外になかった。

西山昭宣・宮本千晴『観文研二十三年のあゆみ』P.189 観文研 1989年

 

観文研の旅学において重要なバネとなったのは、このようにとことん向き合ってくれる対話相手の存在でしょう。上の立場からの指導ではなく、自分よりちょっとだけ先輩の仲間、という関係が功を奏したと考えられます。

 

何度も書き直し、夜が明けるまで討論が絶えませんでした。めいいっぱい議論し、主張し、反論する。それは他人が読んで分かるように書くことで、思考を練って煮詰めていく過程でした。ケチをつける側も相手を納得させるのに必死です。他人の目と闘うことで、書いている本人も本当に自分が書きたかったことを発見します。教育といえる大事な部分はそこにありました。その人の学びを深めるために、相互にやりとりができるところです。
ふわあっと集まって、ふわあっと旅をして楽しかった、というのではなく、自分の使った時間に対して、これで良かったのか、という厳しい目がないと伸びない。

宮本千晴氏 interviewed by halkof 2019年

 

このような『あるくみるきく』の制作と対話を通して、若者たちは自身の旅を見つめ直し、進むべき人生の道を拓いていったのです。

 

多様な特性を活かす居場所

会津の大内宿
茅葺屋根が見事な会津の大内宿
観文研で歩いた相澤韶男氏が保存に貢献した
2017年

観文研には常時3、40人ほどが出入りしていましたが、面白いのは、「所員」という区別がはっきりなかったことです。

事務所への出入りは誰でも自由でした。来るもの拒まず、学歴も資格も研究実績も要りません。「出入りする人の全てが所員であるとも言えるし、所員は一人もいないといっても良いような組織」(『観文研二十三年のあゆみ』)でした。

ほとんどは定職のないフリーターや学生で、観文研でもらった旅費やアルバイト代を握りしめては、旅を繰り返していました。元所員たちは、集まった仲間たちについて口々にこう評しています。

 

簡単に言うと変な奴ばっかり(笑)。みんなひとクセあるね。

元所員S.I氏  interviewed by halkof 2017年

変わり者ばかりですよ。整理魔がいたり、計測魔であったり、やんちゃと言えばみんなやんちゃだしね。やくざ集団というか、アウトロー集団が東京でたむろしていた空間の一つが観文研でした。

元所員Y.Z氏  interviewed by halkof 2017年

 

たしかに昭和の世の中で、いい大学を出ていい会社への就職を目指すという規範に背き、旅ばかりしているのは、少しばかり「変」な人たちだったのかもしれません。

ある面では、新しい世界を求めてさすらい、動き続けることそのものが喜びのような人々です。また、ある面では、モノやデータを収集、記録することに夢中になる、学究心が強い人々です。


好きなことならほとんど飲まず食わずで一昼夜でも語り続けられるほど、エネルギッシュでもあります。しかし幼い頃から利発でありながら、なぜか予想された安泰なコースからは外れて生きています。

そのため組織や集団には馴染まないようですが、観文研は組織といっても決まった枠がなく、寛容でした。

 

組織に縛られるのは、そりゃあもう大っ嫌い。めっちゃくちゃ嫌いです。観文研は宮本常一の思想と宮本千晴さんの方針で、別に縛ろうっていう気がまったくありませんでしたから。

元所員K.T氏 interviewed by halkof 2016年

 

研究所を「はっきり言って『病棟』みたいなもんだよ(笑)」と例える声もあります。

 

観文研の外の日常では、みんな変わり者さ。まっとうな人間には見えない。だけど観文研に来るとやっと、『普通の人』になれる。『何だあの変わった奴は』と言われる人でも、神様みたいな有名人でも、特別に扱う人は誰もいない。観文研に行けばただの人だから。ちょっと世間では受けいれられない共通のごビョーキみたいなものがあって(笑)。あの空間は唯一、そういう人間が普通になれた場所なのかなって思う。

元所員・田口洋美氏(大学教員) interviewed by halkof 2018年

 

「所員」たちは互いに、場合によっては真逆といってもいいほどに、関心も意見もさまざまでした。それでも同じ場でやっていけたのは、そうした混沌を混沌のまま、まるごと受けとめられたからでした。

 

観文研では異質なものが同居していました。探検だったり、まじめな研究だったり、民俗、建築、経済、さまざまな関心を持つ人たちが、融合するわけではないけれど、知らず知らずお互いに影響しあう環境でした。

元所員T.Z氏 interviewed by halkof 2017年

観文研は、宮本先生は、多様な価値観を認めたんです。それは生き方の多様性なんですね。バイオダイバーシティならぬ、『ライフダイバーシティ』なの。たとえば、ニートはいけないとか、大学の基準は就職率だとか、現代社会ってある職能だけしか認めないところがあるんですよ。人の多様な姿を認めることが少ない社会は、やっぱり貧しい社会だと思う。

元所員・田口洋美氏(大学教員) interviewed by halkof 2018年

 

ぼくら昔ね、訳もなく飛び込んできた人は大事にしようって言われたの。理由が分かってくる人はまあおおよその見当がつくんだけど、訳も分からず来た人って、ものすごいことになるかもしれないって。

元所員I.K氏 interviewed by halkof 2017年

 

若い旅人たちはこうして興味の赴くまま自由に国内外を歩き、磨き合い、のびのびと羽ばたいていったのです。

旅に明け暮れて観文研を卒業した元所員たちはその後、地域貢献や、研究、教育、文筆、編集、工芸など、さまざまな分野で才能を発揮し、現在も活躍しています。

 
 
 

《主な参考文献》

日本観光文化研究所『あるくみるきく』

日本観光文化研究所『観文研 二十三年のあゆみ』

 


宮本常一著作集 18 旅と観光


宮本常一著作集 31 旅にまなぶ

 

 

 

 

 

 

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