リュックサックを背負って足で歩き、村々を見て、お年寄りから話を聞くーーそうして独自の「野の学問」を打ち立てたことで知られる民俗学者の宮本常一(1907ー1981年)は、日本の隅々を訪ねた旅人でした。
その旅は、歩く、見る、聞く、という徹底した学びの技を持ちながらも、何より発見を面白がる好奇心に溢れたものでした。宮本常一は「どうじゃ、おもしろいじゃろう」「旅はええもんじゃ」が口癖だったといいます。
また、出会った村人たちの生活向上のために何ができるのか、と問う熱い思いにも支えられていました。
多くの人々に影響を与えた、宮本常一流の旅学をご紹介しましょう。
宮本常一の生い立ち
ふるさとの周防大島
宮本常一は1907(明治40)年、山口県の瀬戸内海に浮かぶ、周防大島の農家に生まれました。父親の善十郎は情熱家で働き者、母親のマチは慈愛に満ちた優しい人で、常一は大切に育てられました。夜は祖父の市五郎に抱かれて昔話や民謡を子守唄にして眠り、その記憶がのちに民俗学に親しむ土壌になったといいます。素朴でぬくもりある島の暮らしは、常一にとって日本のふるさとの原景でした。
宮本家はもともと裕福な旧家でしたが、病気や火事の不運が重なり、当時は貧しい暮らしだったと常一は書き残しています。それでも家では大正4、5年頃まで、旅人が訪ねて来れば無料で泊める「善根宿(ぜんこんやど)」の習慣を先代から引き継いでいました。村には毎年、旅芸人も巡ってきました。常一は家に泊まっていく巡礼を見送ったり、旅芸人たちに胸をときめかせたりして、少年時代を過ごしました。
周防大島の人々は昔から旅人を快く迎えてきましたが、島民自身もまた、気軽に海を越える旅人の気風があったといいます。父の善十郎にも、行き先も告げずふらりと旅に出るようなところがありました。若い時分には船ではるばるフィジーに渡り、開拓を志したこともあります。フィジーで風土病が蔓延し、やむなく帰郷してからも、国内の方々へ旅をしました。善十郎がそうして足で得た知識の豊かさに、常一は驚いていました。
仕事を休んでいるとき、父は頂上から見える中国地、四国地の山々、海にうかぶ島々の一つ一つについて話してくれる。いったい父はその知識をどこで得たのであろうかと思うほどいろいろのことを知っていた。これほど私の知識を豊富にし、夢をかきたててくれたものはない。自分の周囲の誰よりもゆたかな知識を持っている父を畏敬した。そしてそれは小学校へろくにやってもらえなかった人とは思えなかった。本を読んで得た知識ではなく、多くの人から聞いたものの蓄積であり、一人ひとりの人が何らかの形で持っている知識を総合していくと、父のような知識になっていったのであろう。
宮本常一『民俗学の旅』P.31-32 講談社 1993年
父にとっては旅が師であったかと思う。そして私を旅に出させることにしたのも旅に学ばせるためであったと思っている。
宮本常一『民俗学の旅』P.40 講談社 1993年
父から海の向こうの島や山々の話を聞いては、少年常一は、まだ見ぬ世界への夢を膨らませました。
旅と人生の十ヵ条
常一が16歳になると、進学のため大阪へ出るにあたり、父は次の十ヵ条を申し渡しました。今も語り継がれている、宮本流旅学の心得といえるものです。
〈一〉 汽車へ乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か茅葺きか、そういうこともよく見ることだ。駅へついたら人の乗りおりに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また、駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところがよくわかる。
〈二〉 村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上ってみよ、そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮の森や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ、そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへはかならずいって見ることだ。高いところでよく見ておいたら道にまようようなことはほとんどない。
〈三〉 金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。
〈四〉 時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。
〈五〉 金というものはもうけるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。
〈六〉 私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえには何も注文しない。すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし三十すぎたら親のあることを思い出せ。
〈七〉 ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻ってこい、親はいつでも待っている。
〈八〉 これからさきは子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。
〈九〉 自分でよいと思ったことはやってみよ、それで失敗したからといって、親は責めはしない。
〈十〉 人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。
宮本常一『民俗学の旅』P.36-38 講談社 1993年
この十ヵ条が、宮本常一の旅人生の指針となりました。
屋根裏の博物館
柳田國男と民俗学との出会い
大阪に出た宮本常一は、まず郵便局員を養成する逓信講習所に入り、卒業すると郵便局に勤めました。それから大阪府天王寺師範学校第二部で勉強し、19歳から小学校教員として働き始めました。
すでにこの頃、旅心は開花しています。常一は暇さえあれば家のまわりの野山や路地裏を逍遥しました。生徒たちも野山に連れ出しました。また、近所の長屋の住人の人生相談にのったり、河原の橋の下で暮らす人々に話を聞いたり、さまざまな生き様に触れたことが、若い常一に深い印象を残しました。
しかし23歳のときに肺を病み、島に帰って長期の自宅療養を余儀なくされます。寝たきりの日々で慰めとなったのは、愛読していた万葉集や、民俗学者の柳田國男(1875ー1962年)が創刊した雑誌『旅と伝説』でした。この雑誌に祖父から聞いた昔話を投稿したのを機に、常一は柳田から励ましの手紙をもらいます。病気が回復すると、27歳のときには面会も果たしました。そして柳田から民俗学の研究者たちを紹介され、彼らと大阪で民俗学の談話会を開くようになりました。
師・渋沢敬三との出会い
その談話会へ、生涯の師となる渋沢敬三(1896ー1963年)が現れます。日本資本主義の父・渋沢栄一の孫であり、のちに日本銀行総裁や大蔵大臣を歴任する人物です。
祖父の道を継いだ渋沢敬三は当時、第一銀行の常務でした。しかし本来は学者志望であり、東京の邸宅には「アチックミューゼアム(屋根裏の博物館)」と名付けた一角を設けていました。仕事の傍らで、そこに民俗学などの研究者たちを集め、私的に支援しました。渋沢敬三は、華やかな近代化を築いた祖父を敬愛する一方で、裏表のように失われつつある昔ながらの民衆の暮らしも見つめていたようです。
宮本常一は渋沢敬三に「百姓の子」の目線で民俗を語れる才能と人柄を見込まれ、アチックミューゼアムに招かれました。そのとき常一はすでに結婚して幼い息子がいましたが、妻子をおいて一人上京し、1939(昭和14)年に32歳で渋沢邸の居候となりました。託された役目は、日本の民衆の生活をその目と足で確かめ、記録することです。
渋沢敬三は常一に、学者になるな、あくまでも資料の発掘者であれ、と望み、次のように説きました。
大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況を見ていくことだ。舞台で主役をつとめていると多くのものを見落としてしまう。その見落とされたものの中に大事なものがある。それを見つけてゆくことだ。
宮本常一『民俗学の旅』P.98 講談社 1993年
その教えは、「人の見残したものを見よ」という父・善十郎の十ヵ条とも不思議に同調していました。
父と渋沢敬三の導きを胸に、宮本常一の本格的な旅が始まりました。
歩く旅
リュックサックを背負って
宮本常一はアチックミューゼアムを拠点とし、民俗を記録するため日本全土を巡りました。基本は興味が赴くままに歩いていく旅です。旅費は渋沢敬三から出されましたが、「大半はまったくの乞食旅行」(『中国風土記』)だったといいます。川で洗濯をし、背負った荷に付けて干しながらの旅路は、「リュックサックが肩に食い込み、汗が全身をぬらした」(『村里を行く』)といった苦労ぶりでした。
しかし道中はつらさよりもむしろ、一歩一歩あゆんでいく喜びがまさっていました。知らない土地で人に出会い、風土を感じる旅は、面白くてたまらなかったようです。常一は夢中になって歩きまわりました。
そうした旅には知人のいることは少ない。だから旅に出て最初によい人に出あうまでは全く心が重い。しかし一日も歩いているときっとよい人に出あう。そしてその人の家に泊めてもらう。その人によって次にゆくべきところがきまる。その人の知るよい人のところを教えてもらう。そこへやっていく。さらにそこから次の人を紹介してもらう。しかしその先が続かなくなることがある。そうすると汽車で次の歩いてみたい場所まで行く。そしてまた同じように歩きはじめる。
宮本常一『民俗学の旅』P.113 講談社 1993年
こうして行く先々で、1000軒を超える民家にほとんど無料で泊めてもらっています。突然訪ねてきた旅人ですから怪しまれそうなものですが、実際に宮本常一に会った人は口々に「あの笑顔が人をとろけさせる」と言います。初対面の相手でもあっという間に懐に入って打ち解けてしまう人柄だったようです。
旅から帰ると宮本常一は渋沢敬三に、見たこと、聞いたこと、考えたことを熱っぽく語り明かしました。敬三は常一を息子のように可愛がり、「わが食客は日本一」と称えました。
豪華な旅館より民宿へ
やがて太平洋戦争が始まると、自由な旅は難しくなりました。宮本常一は大阪府から依頼を受け、食料供給の確認のために農村をまわるようになります。
戦後は復興に向け、村々で農業指導に奮闘しました。財閥解体によって、渋沢家からはもう援助を受けられませんでしたが、常一はすでに原稿料や講演料を得て生活しており、その収入を工面して旅を続けました。講演の招待旅行では、立派な旅館に泊まることもありました。しかし常一は豪華な宿よりも、民家や、相部屋などの庶民的な宿を好みました。話し相手がいる方が面白かったのでしょう。また、あえての倹約でもありました。
若いときから貧乏旅行をつづけて来た私はいわゆる観光を目的とした旅はほとんどしたことがない。旅の途中で人から招待されて温泉へとまったり風光の美しいところをあるいたことはある。しかし自身ですすんでそういうところはあるかない。理由ははっきりしている。貧乏旅行をして来た者には観光旅行ははれがましいし、また、貧しい人びとと生活をともにするような旅をしている者が、その人たちの群からはなれたとき、そっと一人で豪華な宿や豪侈の中にいることをゆるされない気持からであった。
宮本常一『旅と観光』P.75-76 未來社 1975年
旅をしながら、「人びとの味あわねばならぬ苦難を自らも避けることなく静かに受けてみたい」(宮本常一著作集 1 民俗学への道)と向き合う宮本常一はまるで、一人の巡礼のようでもありました。
古来伝統的な旅の一つである巡礼には、身体の鍛錬や内面の成長とともに、苦しい状況にある者と同じ辛さを分かち合う含意があります。宮本常一は自身が尊敬していた鎌倉時代の遊行僧、一遍上人のように、その本質を体現していたのかもしれません。
「世間師」の知
伝書鳩の旅
宮本常一の旅の特徴に挙げられるのは、必ず旅先の土地で人々との語らいがあったことです。行きあったお百姓さんや、一宿一飯を世話になった家族、相部屋になった旅人、半生を聞かせてくれたお年寄りたちとの出会いは、その旅を忘れ得ぬものとしました。そうして出会った人々と話し合い、田畑を一緒に歩いてみることで、「お互いが啓発されていった」(『民俗学の旅』)といいます。
私など国の中だけを歩いたにすぎないが、多くの人がもっと視野をひろくして国の内外を問わず歩き、民衆の歴史を明らかにするとともに何とか平和な世の中をつくってもらいたいものだと思う。歩きつづけてみて民衆ほど平和をもとめているものはないと思う。
宮本常一『旅にまなぶ』P.33 未來社 1986年
常一はまた、旅をして、優れた農業技術があれば習い、必要とする人に伝えました。参考になる地域があればその例を別の地域にも知らせました。これを旅人の役目と心得て、みずからを「伝書鳩」と任じています。
周防大島ではかつて、広い世間を旅して学び、人々の相談にのるような人物を「世間師(しょけんし)」と呼んだといいます。「伝書鳩」とは言い換えれば、ちょうどその「世間師」でした。
進歩とは何か
伝書鳩のように旅をしながら、宮本常一は、「進歩とは何か」という問いを深めています。
私は長いあいだ歩きつづけてきた。そして多くの人にあい、多くのものを見てきた。それがまだ続いているのであるが、その長い道中の中で考え続けた一つは、いったい進歩とは何であろうか、発展というのは何であろうかということであった。すべてが進歩しているのであろうか。停滞し、退歩し、同時に失われてゆきつつあるものも多いのではないかと思う。失われるものがすべて不要であり、時代おくれのものであったのだろうか。進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけでなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある。
宮本常一『民俗学の旅』P.234 講談社 1993年
多くの人がいま忘れ去ろうとしていることをもう一度堀りおこしてみたいのは、あるいはその中に重要な価値や意味が含まれておりはしないかと思うからである。
宮本常一『民俗学の旅』P.234 講談社 1993年
そう語る宮本常一の目は次第に、中央と地方の差に注がれていきました。
たとえば教育については、中央集権の画一的な学校教育ばかりでなく、その地方に必要な教育があるはずだとうったえています。
生涯教育の場を作るということをまず考えねばならぬ。それも官僚的なものであってはならぬ。自分たちの住む世界をどうしてゆけばよくなるかをじっくり考えたり、勉強したり、交歓しあったりする場である。
宮本常一『日本を思う』P.262 未來社 1973年
また、観光については、外部資本によって観光客に媚びた開発をしても地元住民にはほとんど利益にならないと早くから警鐘を鳴らし、今あるものを壊さずに活かす価値を提唱しました。
宮本常一流の旅学の真髄はこのように、旅の経験を民衆や地域の未来に活かそうとしたことでしょう。
さらに晩年の宮本常一は、若い人を集めて「日本観光文化研究所」を創設し、「歩く」「見る」「聞く」を基本とした旅学の社会教育を実践していきます。その成果は、若者たちがつくった機関誌『あるくみるきく』に結集しました。また、68歳で若者たちとともにバイクでアフリカの大地を駆けるなど、外国へも果敢に視野を拓いていきました。
1981(昭和56)年、激動の昭和を歩いた宮本常一は、73歳でついに永遠の旅に発ちました。
観光地や絶景よりも、日々の営みに目を向け、土地の暮らしや人に触れる歩き方を愛した旅人でした。
今も宮本常一流の「あるく・みる・きく」旅学は、多くの人々の旅心の中に、時代を超えて受け継がれています。
《主な参考文献》